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書評

鈴木康治『消費の自由と社会秩序』社会評論社2012

『経済社会学会年報』XXXV号、2013年、245-246頁、所収

橋本努

 


 

 ジョン・ロックからアダム・スミスに至るまでの経済学者および社会思想家を8人取り上げて、それぞれの思想家の「消費」言説をていねいに再構成した労作である。17世紀後半から18世紀にかけての英国で、「消費」概念はいかなる変容を遂げたのか。経済学史の諸研究を背景に、系譜学的な再構成が試みられる。その成果によって浮かび上がるのは、18世紀の産業革命がもたらした道徳的問題性であり、また近代社会がいかにして道徳的な正統性を再編したのかについての理解である。

 元来、家産制と結びついた身分社会においては、各人はその身分にふさわしい振る舞いをすることが道徳的に要請されていた。このシステムがしだいに崩壊し、新たに産業革命の下で、市場経済システムと結びついた自由社会が形成されると、個人の振る舞いを律する道徳的基準もまた再編を余儀なくされる。大きな社会変動のなかで、いかなる道徳(あるいは生活の指針)が、個人を律する原理となりうるのか。「消費」概念の検討は、この問題を「モラル・サイエンス」の観点から問うための重要な視角であることが分かる。「消費」概念は、広い文脈においては、「貯蓄」、「節約」、「勤勉」、「文明」等のさまざまな道徳概念との対比で理解されるため、「生産」概念に立脚した経済学を離れて、広く社会秩序形成の問題一般に開かれていくのである。

 例えば、J.ロックにおいては、貨幣保有への無限の欲望が、消費そのものではなく、消費を代替する行為として位置づけられ、貨幣欲そのものは、勤勉な労働への動機と矛盾しない点が指摘される。このような消費代替行為としての貨幣保有は、人間に理性的な思考を与えると同時に、さまざまな精神的欠如感を埋め合わせるものとして機能する。消費そのものではなく、消費の代替行為が、社会秩序の担い手としての市民を形成するというわけである。

 同時期にバーボンは、次のように論じた。すなわち富裕層の奢侈は、最終的には精神の洗練化につながりうるため、その地位に見合ったliberality(必要と道徳的縛りから免れた生活の理想)をもたらすだろう、と。私欲に対する寛容性は、社会的是認を求めるコミュニケーションのなかで、地位に相応しい美徳を発展させるという期待がこめられていた。

 むろん、こうした理想の消費論に抗して、悪徳がもつ社会秩序形成機能に注目したのがマンデヴィルであった。18世紀の初頭にマンデヴィルは、「中産階級」の台頭に注目したように思われるのであるが、ただし本書の叙述は、この中産階級の位置づけで揺れており、一方では、「新しい奢侈財需要の主役は、・・・中流である新興の富裕な商人層であった」とし、マンデヴィルの脳裏にもこのような消費者像があったと推測しながらも、他方ではマンデヴィルの引用から、奢侈に耽るのは上流層に限られている、としている。

 中産階級の台頭と上流階級の衰退が同時に進行する時代においては、新しく形成された中産階級を導くための道徳的指針は存在せず、既存の美徳も悪徳も、それが新しい文明社会の形成に資するのかどうか分からない。マンデヴィルは、旧来の基準に照らして悪徳とされる事柄が、文明の進歩に意図せずして貢献するという逆説を洞察したように思われる。

 ところが本書は、ヒュームの観点から、マンデヴィルの議論においては上流階層が奢侈の担い手であったという理解を示し(108)、そのような機能的な階層区分を無効にしたのはヒュームであった、という評価を下している。しかしマンデヴィルが「中産階級」を観察していたのであれば、それをどのように位置づけるべきなのか。それはおそらく、まだ確固たる行為規範を確立していない初期の中産階級であっただろう。この段階の中産階級の位置づけが、本書では弱いのではないかと感じた。むろん中産階級は、その後しだいに、一定の行為規範を確立していく。デフォーの奢侈論は、その途上段階において、中産階級の「過度の奢侈」を戒めるという、穏健な主張を展開したものとして位置づけることができよう。

 一方、G.バークリの視角は、依然として貧困にあえぐアイルランド人の勤労精神を鼓舞するために、外国製品の奢侈的消費に向かう上層階級の人々を批判するものであった。奢侈を排して公共精神を陶冶すべく、バークリは、立派な橋梁や彫刻、あるいは碑文などの公共モニュメントの建設が重要であると主張した。このような公共哲学を展開するバークリが、人々の最終目的を「力能」であるとみて、貨幣の本質を力能の仮託体であるとしたことは興味深い。確固たる中間層の存在しないアイルランドにおいて、公共精神が無限の力能と結びつく思想が生まれた点について、さらなる探求も可能であろう。

 これに対してヒュームにおいては、成熟した文明社会の担い手となる中産階級の道徳基準が総合的に描かれる。加えてヒュームの時代に、奢侈と勤労の好循環を生み出す行為規範として、あらたに「品位(politeness)」の理念が生まれている。「品位」は、「生産的ないし有用である」という意味をもつと同時に、上流階級と中流階級に共通する行為の規範を提供した。旧来道徳に照らせば否定される行為でも、「品位」ある振る舞いであれば肯定される点に、近代社会の道徳的再編を見て取ることができよう。ただしこの「品位」論は、ヒュームに由来するのではなく、本書ではシャフツベリーの議論をクラインが解釈して提起したものとして、紹介されている。

 以上の消費論は、政府の経済政策には直接の示唆を与えていない。これに対してJ.スチュアートは、欲望の相互性から潜在的な有効需要があることを推定し、その需要に則した勤労を創出するという作為的な考え方を示した。他方でA.スミスの消費論は、このような相互主義的な欲望の規定に抗して、各人が自分の生活状態を改善しようとする一般的な傾向として、奢侈的消費を捉えている。地主や商人や職人の行為動機は、道徳的に褒められるものではないとしても、意図せざる結果として「偉大な社会」を構築するための動因となる。ある種の道徳的欠陥(非理想性)が文明を導くとするスミスの議論は、「私悪すなわち公益」とみなすマンデヴィルの議論を発展させたものだとみることができよう。

 スミスは「消費」が「生産の唯一の目的」とみなす。しかしスミスの体系においては、消費もまた「国富の増大」を担わなければならない。具体的には、耐久財の購入と蓄積、あるいはそのための節約による使用こそが、消費の指針とされる。奢侈的消費と勤労の好循環によって、近代文明の成熟とともに、スミスにおいて「耐久財を購入・蓄積すべし」という考え方が出てくる点に、私たちは消費論の一つの着地点をみることができよう。元来「消費」の概念は、「破壊」や「消滅」の意味をもっていた。ところがスミスは最終的に、「破壊」を「耐久」へと読み替えたのだった。

 この「耐久(財)」が、私たちの時代にどんな意味をもつのか。あるいはヒューム的な文明と消費の担い手が今日においてもつ意味はなにか。本書が扱う時代を超えて、私たちの時代の消費は、いかなる社会秩序の形成要因となるのか。こうした視角から18世紀の経済思想を問い直すならば、別の理解も可能であろう。いずれにせよ本書の研究によって、私たちは大変見通しのよい地平を手にしたように思われる。